甲山事件:検察・
メンツ・迫害
文: M.フォックス  
訳:中野温子

1974年3月17日、知的障害児施設「甲山学園」で12歳の女の子が行方不明になりました。二日後、今度は12歳の男の子がいなくなりました。。学園の職員達は、地域の人びとや警察の助けを借りて一帯をくまなく捜索したが、その捜索は悲惨な結末によって打ち切られました。学園の敷地内の浄化槽の中から二人の遺体が見つかりました。公式に発表された死因は溺死でした。


 警察は即座に殺人容疑で捜査を開始し、学園の職員33人全員に対してそれぞれ尋問を行いました。園児がそのような悲劇に関わった可能性を想像した者はほとんどいませんでした。。しかし、浄化槽の内容物をバキュームによって吸い出した結果、浄化槽の中にはおもちゃや 衣類、食器類なども落ちていたことが明かとなりました。このことは、子供達が以前からそこでよく遊んでいたこと、また浄化槽のふたを自分達で開け閉めしていたことを うかがわせます。
 絶え間のない警察の尋問と監視は多くの職員達の神経をすり減らし始めました。捜査員達の捜査の対象は、職員達の私生活や性行動にまで及びました。 ゴシップ や うわさ話も徐々に、とるに足らない非難に結び付けられていました。理由や証拠もないまま、警察はこれを発表し:「この犯罪が女性によってなされたことは疑いの余地がない」と。「容疑者を逮捕しろ」という組織の内外からの圧力は、日増しに激しくなっていました。4月7日、事件から28日後、兵庫県警は22歳の保母 山田悦子(旧姓:沢崎)を殺人容疑で逮捕しました。

 どんな証拠と証言が逮捕に結びつきましたのか。山田さんは、一人目の園児がいなくなった日の当直員の一人でした。彼女の家庭環境は複雑で、少しふつうとは違っていました。
  生みの母親と幼い頃に別れ、祖母に育てられました。
  父親は三度結婚と離婚をくり返していた。
  性格は若い女性として従順で追従的なタイプとは異なり、ちょっと率直で明け透けな人。
 捜査員たちの執拗な尋問に ほとほと疲れ果てた彼女は、警察に協力することをやめてしまいました。しかし、とても繊細なところのあった彼女は、亡くなった園児の葬儀の場で 取り乱したように 激しく号泣しました。
 
 この時点では、警察が山田さんを疑う根拠はその程度のものだけでした。容疑に繋がる決定的な材料を欠いたまま、彼女は警察の留置所(代用監獄)に23日間勾留されました。そこで彼女は朝から深夜まで取り調べを受け、外部の弁護士等との接触は極度に制限され、自白調書に署名するように強要されました。自白を手にした警察は、ようやく満足し、プレッシャーから解放されたはずでした。

 これは警察が期待した通りの成りゆきでした。山田さんは断固として無実を主張していたにもかかわらず、とうとう断念して自白調書にサインしてしまいました。といっても完全に屈服してしまったわけではない証拠に、調書にはこう書かれた。「無意識のうちにやってしまったのだと思います。」数日後、刑事たちは山田さんから計画的殺人を認める本格的な自白を引き出すことに成功しました。
 
知恵おくれの子供が悪臭を放つ浄化槽の中で汚物にまみれて溺死したというこの事件のいまわしい特質は、人々の注意を引き付けるには十分だった。実質的な裁きはメディアによって行われました。常に新しい特ダネに飢えている新聞やテレビ局は、この事件を興味本意に煽り立てることにこぞって熱中しました。山田さんの逮捕とそれに続く自白は、プライムタイムのテレビニュースや新聞の一面で報じられました。日本のメディアは、警察発表に疑問を持たず、それを鵜のみにします。全く対照的に、mediaはこの若い保母が園児を浄化槽に落として殺すという狂気の犯罪を行った動機や目的を探り出すために、容疑者となった山田さんについて あらゆる方法で調べあげ、分析を行いました。
 
例えば、4月8日、山田さん逮捕の翌日、毎日新聞朝刊は報じた:「山田には、マンホールのふたを開けて「光子、言うことを聞かないと落とすよ」といって光子ちゃんをしかる習慣があった。彼女は3月17日にも同じことをしたところ、あやまって、あるいは反射的に彼女を落としてしまった。」
 
自白を手に入れた場合、司法手続きにおける次のステップは、検察官による起訴。しかし立証可能な証拠や真実性の高い証言なしに何ができるだろうか。スケープゴートを求める人々の欲望は既に満たされていたし、山田さんの名誉はすでに永久に破壊されていたので、警察は山田さんを釈放しました。
 この物語はここで終わるはずのでしょう。警察は山田さんが人目につかない山奥の村に引きこもることを期待していたと私は思っております。世間はやがてこの事件を忘れ、捜査員たちは労を
ねぎらわれ、御褒美をもらえるはずでした。そして司法当局の権威は世間の目によってさらに強められるはずでした。
  予定通りに物事が運ばないことは良くありますけど、この場合がまさにそうでした。、見知らぬ土地に身を隠す代わりに、山田さんは次々に支援に立ち上がった良心的な人権擁護派の弁護士達に支えられて、果敢にも、兵庫県警と国を相手取り、不当逮捕に対して国家賠償法に基づく公式な謝罪と賠償を求める訴えを起こしたのです。この種の国倍訴訟で原告が勝ったケースは皆無に等しく、勝つ見込みは薄かったが、大体象徴的な意味があった。山田さんを犯人にでっち上げた人達は、一転して悪役の側に回されてしまいました。
 
権威主義的な社会において、メンツの価値は計り知れません。山田さんと弁護団がやったことは、国家の威信に泥を塗るにも等しいことでした。勝訴という形で報われるか否かが問題なのではなく、捜査や尋問を行った警察官たちは証言台に呼ばれ、公正な訴訟手続きによって裁かれることになります。メディアは自分達があれほど夢中になってあおった結果が、実はでっち上げだったと示されることになります。
 
国を相手取った訴訟は人々の注目を集めます。一介の保母とやり手の弁護士たちに恥をかかされる結果になることを 恐れた権力側は、昂然と反逆に打って出ました。公判の傍聴席には、制服姿の警察官が座るようになりました。これは山田さんに有利な証言をする証人に対する無言の圧力になります。山田さんの弁護士は警察官の退席を要求したが、この請求は裁判所によって退けられました。警察官による脅しは成功しました。国側に対して不利になる証言をする予定だった証人二人が、突然証言台に立つことを断念したのです。一般市民によって構成され、司法当局による刑事事件の処理が妥当かどうかを評価する検察審査会は、この事件に対して不起訴不当の判断を下しまた。
 
地方検察官は、事件の再捜査を命じました。新たな証拠を集めるため、当時の園児達に対するに対して聞き取り調査が行われました。いずれも、程度の差はあれ知的障害をもつ子供達である。焦点になったのは、その時点から3年と数カ月も前の、二人の園児がいなくなった夜のできごとについてでした。
  
二人の園児がいなくなった夜、園児達の生活はいつもと特別変わったところはありませんでした。だとすれば、どんな記憶が残っているというのか。しかし警察は十分な収穫を手にした。五人の園児たち証言に基づき、山田さんは1978年3月、殺人容疑で再逮捕されました。同時に、山田さんのアリバイを証言した同僚二人も 一人は事件当時の学園園長でー偽証罪で逮捕。 さらに、警察は復活した自らの威信と力を誇示するかのように、山田さんの支援団体の事務所を家宅捜索し、ほとんどすべての書類を持ち去ってしまった。そして国家に対して敢えて戦いを挑もうとした ならず者に対する 
見せしめとして、警察は支援者15人の自宅にガサ入れを行い、1000点余りもの「証拠品」を押収しました。
Talk here 甲山事件の真相は明らかになりました。 再逮捕と22年の長期裁判は警察の面子の復活と、
国家賠償請求をつぶすためでした。  
甲山事件の裁判は、1978年7月に始まりました。検察側が示した証拠の柱は、五人の園児証言と最初の逮捕で山田さんの自白。裁判所は山田さんの勾留を求める検察側の訴えを却下し、身柄を拘束されずに裁判を受けることを彼女に許しました。
 
七年半続いた裁判に、1985年10月判決が下され、検察官の主張をすべて退け、山田さんと二人の同僚に無罪を言い渡しました。
 
日本国憲法39条ははっきりと規定している。「何人も~~~~~」 だが独裁国家では、検察当局は通常やりたい放題で、検察はすぐに、大阪高等裁判所に控訴しました。高裁は自らこの事件を審理することを巧みに避け、神戸地裁に差し戻して再審理することを命じました、結果的に、山田さんの有罪の可能性をほのめかしました。、
 
第二次甲山事件裁判は1993年2月に開始。前回よりやや短い五年続いた裁判の判決で、神戸地裁は1998年3月、再び無罪を言い渡しました。
 
20年に及ぶ裁判は、それだけでももう十分に長過ぎでした。さらに裁判を続けたところで何がもたらされるというのか。検察官を迫害者にするだけではないのか。

  メンツが支配する社会では、良識や人権といったものはほとんど意味を持ちません。二度にわたる無罪判決の後、神戸地検は再び大阪高裁に控訴しました。高裁は定礎を受理し、三回目の裁判1999年1月に始まった。